シンポジウム
 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の本質を探る
        (2017年12月9日 於:東京・ベルサール九段)


 パネルディスカッション

 パネリスト


 川﨑仁美(かわさきひとみ) 盆栽研究家

 


 九鬼家隆(くきいえたか) 熊野本宮大社宮司

 

田中利典(たなかりてん) 金峯山寺長臈

 村上保壽(むらかみやすよし) 高野山大学名誉教授

  



 コーディネーター

  植島啓司(うえしまけいじ) 宗教人類学者

 





 司会(ひらのきかく舎:平野昌代表)

 それではこれからパネルディスカッション「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)の本質を探る」を始めたいと思います。

 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」が他の世界遺産と決定的に違うのは、吉野・高野(こうや)・熊野、すなわち修験(しゅげん)道・仏教・神道というそれぞれ異なる宗教の聖地がこのエリアに共存し、それらが参詣道などの古道で結ばれ、今に至るまで活動を続けておられることだと思います。

 今日は吉野・高野・熊野、この紀伊半島にある3つの霊場からそれぞれの重鎮にお越しいただきました。
 これだけのメンバーが揃うのは初めてのことです。


 また、ディスカッションには紅一点として、十数年の盆栽研究から日本の信仰にも深い関心をお持ちの川﨑仁美さんに加わっていただきます。聴衆の皆様を代表し、大宗教家の皆さんとは違った立場から鋭いコメントをいただけることを期待しています。

 では、ここからの進行は宗教人類学者の植島先生にお願いいたします。




 植島

 司会の方からもご紹介がありましたように、紀伊山地の霊場と参詣道では高野山、熊野三山、そして吉野・大峯というそれぞれ異なる宗教の聖地がこのエリアに共存しています。しかもそれが参詣道などの古道で結ばれ、千年以上にわたって日本人の精神文化に大きな影響を与えてきました。

 異なる宗教が道で結ばれ、参詣する人々がそこを自由に往来するなどという現象は、日本以外、世界中のどこにも存在しません。

 このことは、日本の風土がいかに異なる宗教に対し寛容だったか、またそれぞれが互いの教えに対して敬愛と尊崇の念をもって対応してきたか、さらには、いかに紀伊山地が教理を越えた特別な空気を感じさせる場だったかということを示しています。

 さらに言えば、そこには世界のさまざまな文明が調和的に共存するための鍵が隠されているかも知れないという気すらいたします。

 それでは、パネリストの皆さんから3つの聖地のことなどをふくめた自己紹介をいただきましょう。

 まず高野山の村上さんから。



 <各聖地の紹介など含む自己紹介>


 村上

 村上です。よろしくお願いいたします。自己紹介を兼ねて高野山との関係を1人7分、ラッキーセブンという事で…終わるかどうか。

 (会場笑い)

 私の経歴に山口大学と書いてありますが、実は私は山口大学から高野山大学に移ったんです。なぜ移ったのかというと、元々私はヨーロッパの哲学や倫理学を専門にしていました。植島先生は宗教学は食えないけども倫理学なら食えそうだと言うけれども、倫理学も食えないですよ、哲学も。

 (会場笑い)

 倫理学にいろんな専門がある中で、私の専門は「思想」です。思想っていうのはイデオロギーまで行っちゃう側面がありますけれども、物事をどう見たらいいかとか、何を頼りにしたら生きていけるかというその「頼りになるもの」、あるいは物事の根本を見る目線を取り上げていくのが「思想」です。だからどうしても理屈っぽいです。話がついつい理屈っぽくなるんですけれども、そこは我慢して聞いてもらうようお願いしたいと思います。

 私は山口大学で倫理学を研究していた時に、ルソーをやっていたのです。ルソーとかニーチェとかをやっていました。
 しかしそれをやっていて、どうしてもわからない。何がわからないかと言うと宗教がわからないんです。彼らはキリスト教ですよね。キリスト教の神は一人(一者)です。日本のような「八百万の神」じゃないんですよ。今日もそんな話が出るかもしれませんが、キリスト教は絶対神、神は一人なんです。そうすると真理は一つなんですよ。真理は一つ、答えも一つなんです。あれもこれもは許されないんですね。

 そういう宗教が、肌でもってわからんのですよ。匂いとか・血とか・肌とかそういう感覚が分からない。だけどもヨーロッパの思想の根本はそのキリスト教が担っているわけです。
 そうすると日本人がキリスト教がわかるかと言ったら、キリスト教徒にはなれますよ。信者にはなれるけれども、やっぱりわからないんですよ。
 聖書を読んで本当の所がわかるか、わからないですわ。人には説明できますよ。でも、その血となり肉となっている部分が肌で分からないんです。
 
 それで考えたらやっぱり仏教かなと。仏教の方が肌にあっているかなという感覚が働いて、高野山に内地留学して勉強を始めたんです。
 高野山の開創者である空海(AD774-835)の思想研究をやりましたが、最初は横文字から縦の字で漢字ばっかりですよ。
 最初に経典を見た時には、まるで真っ黒な棒が並んでるようで・・・
それに目が慣れないと読めませんから大変でした。

 (会場笑い)

 しかし、そうして経典を読んで研究していくと、空海の考え方に「これはわかるな」と。
 わかる・わからないは感性の問題ですが、感覚的にわかるなと。日本の・空海の感性が合ったんですね。そしてさらに研究を重ねていくうちに、これは「行」(ぎょう)をやらんと駄目だなという事がわかった。
 それでまた3年後に内地留学をして。内地留学を2遍もやる人はいないみたいなんですけれども、そうやって「行」をした。

そのうちに「おい、来いよ」と言われて、高野山大学に移ったんですよ。それが1990年のことです。

 ・・・7分すぎましたので、一旦この辺で。

  (会場笑い)


 植島

 村上さんは最終的に高野山のベスト2まで・・・ベスト4?
 教学部長でしょ、教学部長って一番偉いんじゃないんですか?


 村上

 そりゃ教学部長だけど。偉いとかは・・・それは関係ないですけどね。


 植島

 いえいえ(笑)


 (会場笑い)


 それでは次に、熊野本宮(くまのほんぐう)大社の九鬼家隆宮司です。
 熊野本宮大社といえば、国内にも熊野神社というのが4000ほどありますが、その1番の大元です。2001年から宮司をされてます。


 (拍手)


 九鬼

 どうぞよろしくお願いいたします。座ったままで失礼します。

 最初にですね、ほとんどの皆さんは吉野・高野・熊野の事はそれぞれご存じだと思いますし、こういうフォーラムというのは植島先生・田中さんをはじめ村上先生らがいろんな所で世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の発信をいただいているのですが・・・失礼ながらこうしたフォーラムが今回初めてという方いらっしゃれば、お手を挙げていただければ。

 (会場挙手)


 ありがとうございます。紀伊山地の霊場と参詣道は三位一体でこの世界遺産になったわけですけども、先程、世界文化遺産地域連携会議の井戸さんがおっしゃいましたように全国で17の世界文化遺産がございます(2017年時点)。それぞれの日本の誇りになる・我々の心の元になるものが世界に認められ、また皆様も熊野に限らず色んな世界遺産を訪ね歩いていらっしゃるんだろうと思います。

 さて、先ほど熊野のトップという風にご紹介いただきましたけれども、ご存じ熊野は「熊野三山」でございます。
 山形県の三山とは違いまして、熊野三山にはそれぞれに神社の宮司さんがおられます。お手元のレジュメにもございますように、私は熊野本宮大社の宮司を現在お預かりして15~6年になります。そして滝のあります熊野那智大社。ここは今現在「男成」(おとこなり)という宮司さんでございます。そして、新宮にあります熊野速玉大社は「上野」という宮司さんが護っておられます。

 知らない方もいらっしゃると思うので申し上げているんですが・・・三山は3つだけれども、同時に1つでもあるんですね。吉野・高野・熊野というのもそうですが、私は今の時代、この一体のなせる技というか、「融合」というのがとても大事だと思っているんです。
 改めて神仏習合とか神仏分離とかいう話も出るでしょうけれど、今という時代の中で、私は改めて吉野・高野・熊野が融合していることの役割があるんだろうと思っています。
 口下手でございますが、私なりに熊野のことをお話しさせていただければと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。


 植島

 色々質問したいと思うんですが・・・まず「神道とは何か?」を一言で説明してと言われたら、九鬼さんどうお答えになりますか?


 九鬼

 神道の始まりは自然の中に神を見るということで、その原点にあるのは自然への崇めだと思います。

 熊野那智(なち)大社は那智の大滝をご神体とみなして、そこに飛瀧(ひろう)神社を設けました。那智大社を参拝した人々は右手に見える133mの滝へと進み、それにむかって拝みます。大滝は一の滝で、山中に二ノ滝、三の滝があります。また熊野速玉大社には神倉(かみくら)神社という摂社があり、熊野灘を臨む丘の中腹にある巨石ごとびき岩にしめ縄をしてご神体と見なしています。巨岩信仰は花の窟(いわや)神社、丹倉(あかくら)神社、神内(こうのうち)神社などにもみられ、磐座(いわくら)と呼ぶ巨岩に神が降臨したと考え、それをご神体として祀っているのです。


 植島

 熊野本宮大社は創建2050年とされています。この2050年というのはどこから来たんでしょうか?


 九鬼

 崇神(すじん)天皇代第10代、65年この御世に、御社殿が大斎原(おおゆのはら)に鎮まったという縁起からです。ちょうど半世紀前、50年前も2000年祭を先代の宮司がやり、2018年がそういう年に当たります。


 植島

 2011年の東日本大地震があまりに大きい事件だったのでちょっと影に隠れましたけども、熊野本宮大社は紀州大水害という非常に深刻な災害の影響を受けました。1889年でしたか。
 熊野本宮大社の方はいかがだったんでしょうか。


 九鬼

 大斎原という旧境内地、御社殿の方は水が入りました。熊野川また音無川が氾濫いたしまして、それだけじゃなく吉野の山々の一部で土石流が発生し、山津波が起きました。
 御社殿については1889年の水害の時にいちはやく当時の先任の方が現在の御社殿の場所を境内地を決め、1年8ヶ月後に今の現状の所に移築して、今のお社になってます。
 4・5年前にも非常に大きな水害があり、瑞鳳殿っていう会館が全壊いたしましたが、御社殿自体の建物についてはどうにか免れました。
 あらためて当時の方々のはやい決断でどうにか助かったのだと思っています。


 植島

 1989年の大水害の時は上流の奈良県が森林をものすごく伐採していたわけで、それによって起こったっていう報告もありますが、いかがですか?


 九鬼

 そうしたことも原因かも知れませんが、一方には和歌山県田辺の南方熊楠(みなかたくまくす:1867-1941)という偉人が、当時の神仏の分離の中で取り組まれた、自然から山々を守る運動が大きく動きまして、熊野の山々が守られたという面もございます。
 また、1889年の時はそういう水害がありましたけども、先程申し上げたようにちゃんと今の状況を作り上げたので御社殿は助かったということですね。


 植島

 分かりました。それでは、次に吉野の田中利典さんお願いいたします。
 ご本人が仰るかもしれませんが、紀伊山地の霊場と参詣道の世界遺産登録に非常に御尽力された人物です。吉野の金峯山寺に長くお勤めでございまして執行長、宗務総長等を歴任され、今は長臈(ちょうろう)という職責にあり、ふだんは綾部の御自坊の方で暮らしていらっしゃいます。


 (拍手)


 田中

 紀伊山地の霊場と参詣道は吉野・熊野・高野の3つの霊場から成り立っているのですが、実は初めに、熊野那智大社あるいは那智の大滝の世界遺産登録運動がありました。高野山でも世界遺産登録運動がありました。熊野古道も熊野古道の世界遺産登録運動がありました。
 でも、これらはなかなかうまい事いかなかったようです。

一方で、私がいた吉野の金峯山寺というお寺にも歴史的価値があるものが色々あるのに、あまり世の中に知られていない所がありました。これをもうちょっと昔のような認知が拡がるものに出来ないかな…というような想いを持ちまして、一番最後に世界遺産登録に手を挙げることになりました。

吉野・大峯が手を挙げることによってこの3つが繋がって2004年の世界遺産登録になったわけで・・・もし私がいなければ2004年にはなっていないし、違う形になっていたかもしれません。
 
なんと手を挙げて、たった半年で文化審議会に答申をされました。4年半で世界遺産登録をされたという世界最速、(テレビCMの)Canonのようだ言われました。

 (会場笑い)

 世界遺産登録の背景はそういうことです。私は吉野の金峯山寺というお寺のお役目でそういう仕事をさせていただきました。

 吉野・大峯や金峯山寺の紹介ですが、関東の方は山伏なんか見たことない人がほとんどで、なかなかイメージが湧かないかも知れませんので、今日は河瀬直美さんという奈良県が生んだカンヌ映画祭グランプリ受賞の有名な映画監督が作ってくれた、金峯山寺のプロモーションビデオを持ってきました。
 私は河瀬さんの前で45分喋ったのですが、なんと4秒しか映像には出てきません。

 (会場笑い)

 しかし、これを観ていただくと金峯山寺というお寺がどんなお寺なのか。あるいは夢に出るほどの大きな顔で私が出てきますから、自己紹介も兼ねてこのビデオを観ていただこうと思います。恐れ入りますがよろしくお願いいたします。


 (ビデオ放映)


 植島

 なんか、ナレーションがすごく良かったですね。


 田中

 はい。


 植島

 あれ、河瀬さん?


 田中

 はい。河瀬さん。


 植島

 ほーっ、さすがですね。


 田中

 河瀬監督が撮った「美しき日本」のシリーズは24―5作品あるんですが、音楽がないのはこの作品ともう1つか2つで、河瀬さんの中でも本編が一番出来がいいと言っていました。

 (会場笑い)

 という事で私の自己紹介に代えさせていただきたいと思います。今日はよろしくお願いいたします。


 (拍手)


 植島

 紀伊山地は古くから山林修行者の信仰の地で、縦横無尽に山林修行者の行跡がはりめぐらされていました。そうした信仰がいつしか集められて熊野をめぐる大きな信仰のネットワークになって行きました。熊野参籠(さんろう)が目指したのは「籠り」(インキュベーション)であって、修行や夢や祈りを通じてなんらかの啓示を得ることだったと想われます。調査の結果、紀伊半島一帯には山岳修行者らの行場が数多く発見されており、それらのネットワークの中心に吉野・大峯から熊野本宮大社に至る大峯奥駈道(おくがけみち)が位置していることがわかっています。7世紀の役行者(えんのぎょうじゃ:634年生まれ)など、そこで修行した人たちの活躍なしに日本の宗教史は語れません。

 田中さん、修験道とはどんなものかをごく簡単にお話し下さい。


 田中

 修験道の特徴は大きく3つです。

第1に「山の(山伏の)宗教」。山に伏し、野に伏す宗教のことです。その修行する場所が大自然で、大自然が道場だということですね。

  2つ目の特徴は「宗派を超えた実践主義」ということです。修験というのは実修実験あるいは修行得験といいます。修行によって験力(げんりき)を得る。その験力が神の啓示であったり、自分自身の悟りであったりするのです。「宗派を超えた」というのは仏教の他の宗派の人も一緒に修行しますし、神主さんも歩きます。そういう大らかさ、懐の深さを持っているんです。

  第3には「神仏混淆の多神教的宗教」である。これについてはまた後で触れたいと思います。


 (拍手)


 植島

 では、第1ラウンドの最後に、川﨑さん自己紹介をお願いいたします。


 川﨑

 ご紹介ありがとうございます。京都で盆栽の研究をしております川﨑仁美と申します。本日はお招きいただきありがとうございます。

 私は盆栽の研究をしているんですけれども、ひとことに盆栽と申しましても「育てる楽しみ」と「鑑賞する楽しみ」というものがございます。一般には盆栽をしていると申しますと「何鉢持ってはるんですか」というご質問をいただくんですが、これはまだ育てる楽しみ方しか知られていないということなんですね。
 盆栽を育てるということは毎日の水遣りなど忙しい時期にはなかなか手入れが難しいものになります。ですが、忙しい方でも鑑賞する楽しみを知っていただけますと、距離を置かずに楽しんでいただくことができます。こちら(写真)は黒松の樹齢約200年の盆栽です。樹齢100年以上を超えるもの伝承盆栽と言うのですが、盆栽の展覧会というのはこういった盆栽が多く出品されており、私は鑑賞する楽しみも推進しております。

 さて、盆栽とは何かということなんですけれども、一般で公開されている情報の中で一番わかりやすい定義をご紹介します。
 「広い意味では草木を鉢で栽培することだが、通常、鉢で育てた草木を山水の趣に見立てられるように、樹姿や配置を考慮して育てるものを指す。芸術性の高い園芸の分野。個人による盆栽観の相違もあり、定義は複雑だが、1つの植物が何百年と引き継がれる壮大な園芸であることは変わりない」(森和男・東アジア野生生物研究会)。

 定義に加えて、よく聞かれるのは盆栽と鉢植えの違いです。
 盆栽は自然をお手本にしています。しかし、自然を写す時に、ただ単に自然をコピーしているだけではないんですね。
 盆栽を作る時に重要視されているのは「松よりも松らしく」という考えです。「松らしさとは何か」「自然らしさとは何か」というような作り手の方の自然の解釈を表現する事が重要になってきます。そういった表現が入るというのが、鉢植えと盆栽の大きな違いではないかと考えています。

 もう一点、限られた一鉢の中で長生きするには好循環な生態系も写すという事も重要なんですね。これは鉢の中の環境を微生物やバクテリアというようなところまで再現しているわけなんですけども、そういった考えが実は盆栽には組み込まれています。
 盆栽は芸術か園芸、どちらなのかというような問いかけがありますけれども、答えは両方です。「Arts & Science」という風に考えています。漢字で表記しますとこちら方の「園藝」という風にご理解いただきますと、盆栽がわかりやすくなるんじゃないかと考えています。


 私は現代盆栽という屋号をあげて活動をしております。2017年の4月に埼玉県で「世界盆栽大会」という大きい大会があったのですが、ビジネスキーワードにもなり、たくさんの新たな盆栽や盆栽風のものが発表されました。その中で研究対象をどのような形で判断していくかという時に3つのポイントを挙げております。

 一、自然への敬意があるか。

 一、長寿。命の継続が図られているかどうか。

 一、小さな巨木という仕組みがあるか。

 活動の目的としてはまず始めに「盆栽の誤解を解く」ことを柱にしています。「盆栽をしている」と言いますと「古い事・古い物をされているんですね」という風にお声掛けいただくんです。盆栽の歴史は長いんですけれども、生き物なので命の継続というある種、医療と同じテーマにしながら最先端のものを取り入れ日進月歩で進んでいるという世界です。私の中では盆栽というのは最先端のモノと解釈して扱っております。


 植島

 盆栽は日本発祥なんですか?


 川﨑

 そもそもの起源は中国です。こちら(写真)は世界で一番古いといわれている『章懐太子・季賢墓壁画』中国にある則天武后の王子のお墓の壁画なんですけれども、こちらに捧げ持っている盆上に、石に草木が植えられた絵画があります。こちらが一番古い史料だと言われています。

 ではなぜ中国で盆栽が起こったかという事ですけれども、中国の民間信仰の中に道教というものがあります。道教の神仙思想の中で仙人を目指して道士が修行する中で、仙人がいる仙郷あるいは桃源郷のイメージを具象化するというような事をします。
 これを2次元で表現したものが「山水画」です。そして次にはそれを3次元、立体で表現をし始めるんです。それはのちに「園林」と言われ「庭園」になります。さらにより一層、理想郷に近づける為に盆上・鉢の上に理想郷を作るという事で生まれたのが「盆景」です。

 このことから盆景・盆栽は宗教美術として始まったと考えていいかと思います。

 中国の盆景は、日本には平安時代に伝わったと考えられていますが、こちら(写真)は日本で一番古い盆栽の史料『西行物語絵巻』です。このように入った当時は中国の盆景を写すというようなことをしています。石台といわれる木製の台の上に石、現在でいうところの石づき盆栽というのですが、石に草木を植栽するような形で愛好されておりました。

 もう一巻、有名な絵巻物がございます。春日大社に伝わる『春日権現験記絵』です。これは貴族のお庭の絵画なんですけれども、先程の中国から伝わった盆景を写すような形で石台の上に石づき盆栽・盆席の二鉢が見受けられます。この当時、盆栽とは言わず盆山と言われておりました。

 ここから、一番最初に中国の盆景の真似をする・写すというところから、日本特有のものに変遷していくのですけれども。こちらは観応2年(1351年)の南北朝時代、先ほどの絵画から50年ほど下るんですけれども『慕帰絵詞』には現在の鉢植え、木と鉢のスタイルですね。現在の盆栽に近い形というのが表れ始めます。こちら(写真)です。
 この絵画を見比べていると、中国から伝わった盆景が日本独自の盆栽に発達していく中で、神社にあります御神木のような木そのものを尊ぶ様になっていきます。これは巨木信仰が影響しているのではないかと個人的には考えております。

 なぜこのフォーラムの中で盆栽の専門家が入っているんだと謎に思われていたかと思うんですけれども・・・私の中ではそういう風に繋がっていると考えて研究をしております。
 盆栽は百人百様、好みの世界なんですけれども。普遍的な価値観としまして唯一揺るがないのが古ければ古いほど良いという骨董的価値観・長寿性という部分です。この長寿性という部分が、いわゆる御神木・巨木信仰と呼ばれるようなアニミズムの信仰や感性に繋がっていると考えております。
 神仏習合はいかんせん資料が少なくなかなか研究しづらいところであります。今日はお導きをいただけたら嬉しいなと思って参りました。
 よろしくお願いします。



 植島

 はい、よろしくお願いします




 <聖地と道>



 植島

 世界遺産、紀伊山地の霊場と参詣道。田中利典さんが非常に大きな役割を果たしたという事は、先程ご自身でご紹介されたんで、よくわかりましたが・・・


 田中

 言っとかないと私がしたとかいう輩がでてきて、すでにほかにもう三人ぐらいいるんですよ。
 ですから、今日はちゃんと言うとこかと思いまして。

 (会場笑い)


 植島

 ですけど、紀伊山地の霊場と参詣道に関しては異議があるとおっしゃられていて…


 田中

 そうなんですよ、すごい異議がありましてね。
 
 紀伊山地の霊場と参詣道ですが、一つはよく「熊野古道が世界遺産になった」という風に言われるんですね。私は世界遺産になった年に70回くらい色んな所の講演会によばれたんですけども、大概「熊野古道が世界遺産登録されましたから来てください」と言われるんです。「いや僕は熊野古道の事わからへんけれども。吉野・大峯やったら喋ります」「あ、それでいいです」という、まるで吉野が熊野のおまけのような扱いを受けたというのがまず一つ。

 その原因はね「紀伊山地の霊場と参詣道」という表題にあるんですよ。紀伊山地と言うとね、紀州と伊勢で、紀伊ですよね・・・厳密にいうと高野も吉野も入ってない。
 それと資料には出てませんけども、三県で制作したシンボルマークがね、3つの山なんですよ。どう見ても熊野三山の側から見た紀伊半島が描かれている。


 (会場笑い)

 もっと言うとね、この世界遺産は3つの霊場と参詣道から出来上がっています。その「道」ですが、熊野古道以外に高野山町石道(ちょういしみち)がある。町石道は村上さんが調査されたのが去年追加登録されました。それとともに吉野は大峯奥駈道がある。
 しかしこれね、確かに熊野古道や町石道は参詣道なんです。でも大峯奥駈道は参詣道ではない。あれは修行の道なんです。あんなん参詣してたら熊に喰われますからね。

 (会場笑い)

 命懸けで修行をする道なのです。確かに吉野から出発する、熊野から出発すると、最初と最後は熊野か吉野ですから、ある意味参詣の道になりますが、参詣することが目的ではなくて、その道を「行の場」として歩くことに意味がある。だから、この道は参詣道ではないんですよ。

 この2点から文句あるという話は昔よくしてました。


 植島

 ちなみに、田中さんは大峯奥駈修行には何回くらい?


 田中

 大峯奥駈自体は17回・・・ですが、もともと山に行くの嫌いで、行かなしゃあないから行ってたんです。最近行かなくてもいいと言っていただいたんで、あまり行ってないです。

 (会場笑い)


 植島

 あの奥駈を17回も! それはすばらしいことですね。では、その大峯奥駈道がどんな所なのかについても少し。


 田中

 今、申し上げましたように、吉野と熊野を結ぶ大峯奥駈道は参詣の道ではなく修行の道です。単に寺や神社にお詣りに行く道ではなく、道中を行(ぎょう)ずることが目的で、山中の「靡」(なびき)という修行や勤行場などを巡る修行なのです。靡は現在75ヵ所に集約されていますが、古くは百数十の修験の霊地や役行者が足跡を残したとされる場所が要所としてありました。

 熊野から吉野へと歩く道を順の峯(順峯修行)、吉野から熊野へ歩くのを逆の峯(逆峯修行)といい、釈迦岳の北側には両部分けという拝所があります。ここより北の吉野側を金剛界(男性的な世界を象徴)、南の熊野側を胎蔵界(女性的な世界を象徴)と見なしています。これらが相交わり聖なるものが完成します。密教的な世界観の中を修行者が行じていきます。その峰中には普賢岳・釈迦岳・大日岳と、山に仏の名がたくさんついていて、まさに曼荼羅の世界を歩いていることが実感されるようになっているんです。


 植島

 村上さん、新しく追加登録された町石道についてもひとつ。


 村上

 自己紹介の続きをさせていただくということでよろしいか?

 (会場笑い)

 1990年に高野山行った時、どういうテーマで研究しようかということを考えました。空海の研究は当然として、それ以外にももっとあるとわかっていたのです。なぜかと言えば、宗教は生きているからです。理屈ではなく、宗教は生きているっていうのをどういう切り口で見てみようかということで、私が決めたのが「信仰と道」というテーマです。

 信仰は家の仏壇の前に信仰があるんじゃなくて、信仰はかならずお参りしますよね。参詣する、お参りしていく、あるいはそこを歩く。その、信仰の道という事を取り上げてやろうとしたんです。
 それが1991年からです。職員も巻き込みました。自分一人で歩くのは怖いですからね。

 (会場笑い)

 なんといったって千メートルの山中を歩くんですから、一人で歩いたら命ないですよ。それで集団で行ってね、チリンチリンとクマ避けの鈴を鳴らして。町の人・職員、20名ぐらいを年に2.3回連れてきて、歩いてもらって。
 高野への道が7つあるんです。もちろんその周辺にどうでもいいような道もたくさんありますが…

 (会場笑い)

しかし、「これがそうだろう」という古い道はひとつです。

 紀ノ川から高野山に登っていく町石道。これは空海が高野山を発見して、降りていった道だと思うんです。吉野の方から来て、高野へたどり着いて。それから天野の方へ下りていきます。丹生都比売(にうつひめ)神社の方にね。だからその道を通ってる。これは間違いないです。
 もう一つはですね。後から出来ていくんですけれども、熊野本宮大社に通じる道があります。小辺路(こへじ)という道です。この二つの道を真っ先にやったんです。

 道を歩いて、歩いた記録を取りましてですね。それを地元の「高野山時報」という月に2回出している真言宗の宗教新聞、そこに「高野への道」というのを書き始めたんですね。
 原稿料をくれますんで、それを貯めてみんなで行ったときに温泉で一杯やったりですね・・・そうすれば長続きしますから。そうやって5年ほどかけてあちこち歩いて、それを元にして書いたものが、高野山関係の世界遺産の元の原稿になってるわけです。

 だから、その時は世界遺産とは思わなかったんですけども。ただ信仰と道を楽しく歩こうとやって・・・ところが今から思ったらですね・・・時間何分経ったかな?

  (会場笑い)

 高野から熊野に行く道があるんですけどもね。それは素晴らしい道が遺ってたんですよ。
 それをどんどん歩いて行ったらですね、高野スカイラインというのがありますね。あそこでまず古道がぶった切られたんですけども、それでもまだ、尾根道が残ってたんです。
 それは素晴らしい秋でした。秋というのは葉が落ちますから見晴らしがきくわけですよ。
 そこを歩いていると、なんか音が聞こえるんですよ。それで近づいてみると・・・ブルドーザー。古道を潰してるんですよ。

 で、そのあと世界遺産ですわ。そうすると潰れてるでしょ、ほんとにがっかりしましたね。
 だからね、私が歩いた時期が最後でしたね。良いところが全部崩されてる。そういうところをですね書いていったのが始まりです。

 ですから、世界遺産の立役者は田中利典さん。私はその足元にも及びませんけれども、一応高野への道の5つ6つの古い道を書き残しておるんです。それを高野山側では世界遺産の登録の時に役に立ったと。そういうことで、今日もここへ呼ばれている次第です。

 紀伊山地の霊場と参詣道の本質については、宗教学の問題ですので多少それは喋らせてもらいます。以上でございます。


 植島

 はい、ありがとうございます。本当に今回のメンバーは、こう言ってはなんですが、秀逸ですね。すばらしい。
 さて、九鬼さん、熊野古道はもう大変有名になっていますが、何かコメントはありますか?



 九鬼

 今お話があったように「紀伊山地と霊場と参詣道」というのは、言葉の表現もありますが、古道というイメージがだんだん大きくなり、紀伊山地の霊場=熊野古道と考える方もいらっしゃるようです。

 その熊野古道について少し話しますと、熊野信仰の広がりに伴い、大阪から和歌山県田辺市まで、また熊野本宮大社と熊野速玉大社を結ぶ道には王子と呼ぶ祠(ほこら)が99(実際にはそれ以上)作られました。今も道中の安全祈願の道祖神として道標代わりに祀られています。


 植島

 一般民衆による熊野詣が爆発的に流行するのは15世紀以降ですが、それらをもとに熊野信仰は全国的な展開を見せ、現在、熊野三山の末社である熊野神社は北海道から沖縄まで4000社くらいあるとされています。なぜこんなに?


  九鬼

 熊野という土地は懐が深く、「貴賤を問わず、男女の別を問わず、浄不浄を問わず」無数の人々を受け入れて来ました。熊野詣が盛んになったのは907年の宇多法皇の御幸に始まります。その後300年にわたり花山法皇の参籠や、白河上皇らによるのべ百数十回もの熊野御幸がありました。


 加えて、広がりの要因の一つに補陀落都会(ふだらくとかい)があります。熊野は南端にあり、南方の浄土を目指す補陀落渡海の行が、文献で分かるだけでも868年から江戸時代までされていたようです。舟が黒潮に流された先で、熊野の神仏を祀ったという伝承も残されています。沖縄では琉球8社のうち7社までが熊野からの勧請です。千葉、福島、愛知など熊野神社が海の近くに多いというのも特徴の一つであり、一番多いのは千葉県で約270社。

 それ以外では、中世に全国各地の有力者から荘園が寄進され、その場所に熊野が勧請されたというケースもあります。


 植島

 ところで村上さん、参詣道について何か一言ありますか?


 村上

 そうですね。田中さんが「霊場と参詣道」って、修行の道がないって文句言っていますけども。実はそれは現代的な感覚だと思うんですよ。

 道というと歩くだけだと我々は思ってる、バスで行くとかね。点と点を結ぶものっていうのが道なんですけども、なぜ「信仰と道」っていうテーマをつけて私が高野山の七口の道をみていったかというと、歩いてみたらわかるんですよ。

 実は歩くこと自体が修行なんです。だからね、古代の人たち例えば11世紀頃の藤原道長とか頼通とかですね、あの平安の貴族たちが登ってくる時に下に慈尊院ってところがありますね。そこから180本の町石が建ってるんです。もっとも初めは木の柱だったんですが、後に石の柱に代わりますけども。その時に、道長は殿上人、時の関白ですよね。その道長が草履だけ履いて上がって行くんですよ。輿から降りて、歩いてですよ。そういう事はね、もう「行」ですよ。

 中にはですね、14世紀に後宇多天皇って方がいらっしゃるんですけども。天皇陛下ってのは外へ出られませんから、上皇になったらあちゃこちゃ行くわけですね。温泉地ばっかし行く人もいるし。後宇多上皇は自分も慈尊院から180本の町石道を登ってくるんです。ところが後宇多さんは11本の柱を、1町行っては伏し拝んでというのをずっと繰り返して行くわけです。夜中もそれやるんですよ。雨が降ってくる雷が鳴るわ、とうとう気絶なんかしちゃってね、寒さと疲れで。

 その時にお付きのですね、付いてくる連中は上皇のお付きですからごっつい数います。「どうか輿に乗って下さい。」と言ったら怒っちゃってね。「何事を言うか。自分は修行、弘法大師(空海)の膝元につくための修行をしてるんだ。何とけしからんことを言う」って怒ってるんです。
 それでね、気絶もしながらですね次の日の明け方登ってくるんですね。上皇にすればですね、11本拝んで歩くことがまさに参詣ですよね。

 それがね、点と線を結んで向こうに行っておしまいってのが今の話ですよ。車でどーっと行ってお参りしておしまいでしょ。そうじゃなくて、一歩一歩その道を踏み固めて上がって行くというところに実は信仰の形があるんだということを、私も実際に歩いてみてわかったわけですよ。

 だから信仰というのはやっぱり道を歩くことそれが修行なんですよ。そういう側面があるということを私は言いたいんで、本当は「修行・参詣道」とでも書けばよかったのかなと思いますけれども。


 植島

 田中さんいかがですか?


 田中

 仰せの通りでございます。


 (会場笑い)


 植島

 川﨑さんどうですか?道のこと。


 川﨑

 道ですか。
 
 実はこのお話をいただいた時にですね、まだ熊野古道を歩いていなかったんです。

 ですので、歩こうと思い申込みまでしたんですが…台風が来てしまいまして、行けてないんです。ですので、行こうと思ってから色々調べた時に気になったことをお話しします。

色々調べてみて、たくさんパンフレットがあるという事と、インターネットで検索しても三県それぞれがそれぞれの見所を解説していることが分かりました。
 しかしながら・・・情報がバラバラにありすぎてかえって分かりにくくなっているというか、正直ちょっと多重行政的なものを感じたんですね。本当に行きたいと考えている者からしたら、それぞれの魅力を盛り込んだ質の良いマップが一つあれば十分。できるだけ荷物をコンパクトにして参りたいという思いもございますので、是非また協働してアプリや資料を作っていただきたいというのが、参拝者としての希望です。


 九鬼


 お話にあったように三重県は三重県、奈良県は奈良県、和歌山県は和歌山県、それぞれ色々な取り組みをされていらっしゃるのですが、これは私が言う事ではないですけど、3県一つでものを考えてどこに行ったら一番熊野を感じるか、といったことが少し分かりにくい。

 加えて言えば、三重県にも花の窟(いわや)や産田(うぶた)神社など、熊野三山との関係深い場所があるのに、県境で分断されてしまっているような面もあります。

 今日もこれだけ大勢の方がせっかくの土曜日にこのホールまで来ていただいて、誰一人も立たないでずっといらっしゃいます。それだけこの紀伊山地の非常に深い何かを持って帰ろうということだと思いますので、是非またそういうことも考えて頂ければと思います。


 植島

 東京に住んでいると、熊野には非常に神秘的なイメージを持つのですが、熊野ブームが起きるのは歴史の大きな節々、いわば転換点ですね。
 例えば神武(じんむ)天皇が国を開き、日本の古代史が始まる時に熊野が出てくる。また12世紀の保・平治の乱という古代から中世の転換期に後鳥羽(ごとば)上皇が夢を見るんですね。夢解きした結果、翌年、天下分け目の争いが起こるという熊野の託宣が下される。そして21世紀になって世界遺産という特筆すべき場所になった。

 なにか千年単位くらいで熊野は歴史に大きく登場してくるんですが・・・九鬼さん、そもそも熊野詣にはどんなご利益があるんでしょう?



 九鬼

 第一には「再生」です。自分で新たに働き事を始める時にはしっかりと自分の原点を取り戻すために熊野を訪れて、前に向かって突き進む。大きな飛躍をするための原点というか、一つの働きごとを始める「魂の拠りどころ」の要素が根底にあると思います。


 田中

 吉野・大峯にも、中央で負けた方がよく逃げておいでになります(笑)。

 7世紀の壬申の乱で戦われた大海人皇子以外は負けたままなんです。12世紀(鎌倉時代)には源義経も来ますけど、やがて追われますし、14世紀(南北朝時代)の後醍醐天皇はそのまま吉野でお亡くなりになられます。

 でも、吉野にしろ熊野にしろ、さきほど九鬼さんが「再生の場所」と仰ったけれど、再チャレンジというか、起死回生というか、蘇生の場所という印象があるのでしょうね。山深い紀伊半島の大自然の奥で、なにか新しいよみがえりの力を感じるからだと思います。


 九鬼

 大斎原は実は「子宮」の形をしているんです。そこに来た時に、実世界でのいやな思いを断ち切り、川でみそぎをおこなって一旦リセットする。それから別の世界に入って手をあわせ、自分を蘇らせまた実世界へ戻って行かれるという訳です。



 田中

 吉野修験の奥駈修行は吉野川の水垢離に始まり、明治の水害までは熊野の旧本宮社殿の裏を流れる音無川で終えていました。水から生まれ、水に戻ることを修験では擬死再生といいます。偽装的に死を体験し、生まれ変わることで何らかの力が得られるということが修行の方法として用意されているんです。



 植島

 一方で、日本の仏教界に大きな変化をもたらしたのが空海です。空海も山岳修行に身を投じた一人ですが、そこに見られる雑多な知識の氾濫に違和感を覚え、唐から直接、正式な密教を入れようと試みました。804年に遣唐使として唐に渡り、2年後に帰国して816年に高野山金剛峰寺を開いています。

 熊野にはいろんな偉い人がいっぱい来てるということですが、空海が行かれた記録とかはないんでしょうか?


 九鬼

 空海さんが来られたっていう記録はないですね。その後の「御幸記」ってのはありますけどね。
 おっしゃっておられる丹生都比売は、特に空海と深い関係があるとは思いますけど。


 植島

 空海が吉野から1日天川まで旅をして、それから西に2日間それで高野山を見つけたっていう記述が残されていますが、そこからさらに南下して、熊野まで行ったというのはちょっと考えられないですかね。


 村上

 行かなかったと思いますよ。行かなかった。

 (会場笑い)

 今はね道路がありますから、好きなところへ行けるでしょうけど。当時は歩いていきますから、あそこはね山々を越えていくんですよ。それを越えていく為にはそれなりの許可がいるんです。道があれば色々あったでしょうけども、空海のころはそれが難しいんです。山を越えるというのは他人の領土に入るって事ですから、許されないんですよ。
  
空海のテリトリーは紀ノ川の水系です。ところが熊野は熊野川の水系なんです。川が違ったら神様が違うんです。山の神が違うんです。だから空海は紀ノ川沿いの山は歩けても、熊野水系の山には入れないんです。
 それを考えたら絶対熊野へは行ってない。ただし天河の弁天さんの関係から弥山は行ってます。





 <神仏習合>



 植島

 それでは、ここからは「神仏習合」ということに話題を移して行きましょう。

8世紀の奈良時代に東大寺の大仏が建立されましたが、これに大きな役割を果たしたのは九州の宇佐(うさ)八幡宮です。
 すでに8世紀に当然のように神仏習合がおこなわれていたのだと思います。

川﨑さん、盆栽をされていて。盆栽というのは世界観の問題ですから、当然信仰とか宗教とかと関わってくると思うんですけども。普段の生活ふくめ「神仏が習合してるな」と感じる時はありますか?


 川﨑

 個人的な神仏習合感については、家庭の習慣としまして神棚があり、氏神さんにお朔日には月参りに行きます。お墓参りも中学校でクラブ活動をはじめるまでは月参りしていました。そういった意味で神仏混合の環境で育ちました。

 では反対に神仏が「分離」しているなと感じたのは・・・私は高校から私学の高校に行ったんですね。京都は宗教法人の私学、特に仏教系の学校が多いんです。卒業する時に受戒を受けて戒名をいただいて卒業するとか、週に1コマ礼拝とですね。あともう1コマ宗教の歴史、仏教の歴史を学ぶんですね。

 そして、その中で仏教と神道の違いを学びました。それまでは仏様も神様も一緒やというような家庭環境で育っていたので、混合している状態なんですけれども、学校教育によって分離を知りました。


 植島

 そうですか。でも京都というのはそんなにもう小さい頃からお墓参りとか、普通にされていたんですね。


 川﨑

 そうですね。うちの家は分家で核家族の気楽な家だったんですけれども、古風な家ではあったので。習慣として「行くもんや」というふうに刷り込まれて育ちまして、行っていましたね。


 植島

 はい、ありがとうございます。九鬼さんにお聞きしたいんですけども、神仏習合とよくひとことで言いますけれども。それを実感されることはありますか?


 九鬼

 実感というか、うちのお祭りは必ず修験道の方・僧侶の方も参画していただいて取り行っています。時代が変わっても皆さん方がそういう想いで神事や祭を今まで伝えてきているということです。通常のお参りでも、各宗派を問わず各僧侶の方が檀家の方を連れられてというのは普通です。
 つまり、根底には神と仏が一体であるというのがあり、神官がいて、僧侶がいる。
 僧侶が別当として三山の管理にあたっていた時代もありますし、19世紀に廃仏毀釈という運動がありそれ以降は神と仏が分かれた形になりましたが、神社としては別々には考え難い感じがあります。


 植島

 村上さんどうですか?


 村上

 いつ神仏習合を実感したとかってことは、よくわからないんですよ。だんだん物忘れが激しくなったものだから。

 (会場笑い)

 たぶんね、神仏習合というか神と仏さんが習合しているっていうのは知識としては中学生の頃に入ってましたね、頭に。しかし、その頃にそれがどういうものであるかはいまひとつわからなかったですね。
 今の歳では神仏習合ってのは非常にわかるし、お寺に行ったら、実際にはそこに神社がある。古いお寺にはかなりあります。そんなもん絶対惑わされないってお寺さんもありますが、平安時代くらいにできたところは・・・・高野山だと丹生都比売神社、それから比叡山・天台(てんだい)宗だと日吉(ひえ)神社ですから。

・・・ちょっと仏教のこと話していいですか?


 植島

 短くね。

  (会場笑い)


 村上

 南伝仏教ってありますね。南に伝わったビルマとかなんとか。南伝仏教の経典の中に釈尊の「地元の神を祀れ」って言葉が出てくるんです。これはね、地主神ですね。
 土地の神を祀るってことはインドのガンジス川のあの辺りでも行われてたってことがわかりますね。ですから日本にも、それの流れが来てたんだと思うんです。だから仏教と地主神を祀るってのはそんな異質なものでは無くて、南伝仏教の説からするならば当たり前の話になってくるんですね。

 空海が丹生都比売から高野山を貰って金剛峰寺をつくるんですけども。それがどういう事かというと、丹生都比売の許可を得たっていうんではなくて、丹生都比売を祀らないと金剛峰寺が保たれんわけです。地主神がいないから。

 ですから、お寺と地主神はセットなんですね。それは日吉社を祀ってる最澄さんもそうだろうし。そして高野山が紀ノ川沿いに勢力をずっと伸ばしていった時に、まず何をしたか。高野山の領地に組み入れた時に何をしたかというと、丹生都比売神社を持ち込むんです。丹生都比売を祀ることによって高野山領が広がっていくというか、高野山の力を精神的にも押しつけてるというそういう関係があるんです。
 神仏習合というのは信仰的な面に加え、そういう政治的な支配・被支配の関係で寺と神社とが一体になっているという2つの側面があるって事ですね。

 それともう一つは神仏習合っていうのに、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説ってありますね。この神様は阿弥陀さんの化身・権現(ごんげん)だとか。そういう本地垂迹説というものも神仏習合を理解する上で重要なファクターになっているんです。


 田中

 僕も言ってもいいですか。神仏習合をいつ感じるか。


 植島

 はい、どうぞどうぞ。修験道こそ一番の大元ですもんね。


 田中

 まず体験的なこととしては、先程から何度か申していますが、吉野から熊野にいたる大峯奥駈修行というのがあります。蔵王堂を出発して最初の行場が水分神社という所で、神官さんのお祓いを受けるんですよ。お祓いを受けて、山の中に入っていって、山上ヶ岳あるいは釈迦岳等々を行じて、最後に熊野の本宮大社へ行くわけです。熊野で満行を迎えたあと、後はバスで熊野三山をお参りする。
 まさに神様と仏様を分け隔てなく行じているというのが、大峯奥駈行の世界なんです。私は17回しか行ってないですけども、そういう中で体験的に神仏習合はまだこの地域に残っているなと感じる次第です。

 次にもう1つ。これ(写真)は我々のご本尊です。年に1回ご開帳してるのですが、普段は秘仏になっていて、戸帳という幕が前に掛かっています。蔵王(ざおう)権現様と申されます。本地仏(元のお姿)はお釈迦様・観音様・弥勒様で、三尊が憤怒の形相で権化して現れた。権現というのは仮に現れる、さっきの本地垂迹です。写真中央がお釈迦様で、向かって右側が千手観音菩薩、向かって左側が弥勒菩薩。これがそれぞれ権化して、蔵王権現という恐ろしいお姿で現れた。この権現様を役行者という修験道の開祖が感得されたというのが金峯山寺の始まりなんです。

よく考えるとね、お釈迦様も観音様も弥勒様も実は外国の方なんですね。でも蔵王権現は役行者によると最初にお釈迦様と観音様と弥勒様が現れたけれども、悪魔降伏の姿をさらに念ずると大峰の岩を割ってこの三体が蔵王権現という姿で権化した。つまりその土地、その場所、その時代に応じて神が現れた、これが権現です。岩を割って出てくるのは神様ですよね。そうするとまさにお釈迦様・観音様・弥勒様というのは外国の蕃神ですね。よそからの神様が日本の神様の姿となって現れた。これは神仏習合のまさに象徴的な尊神である。修験信仰を深く学ぶにつれ、そんな風に神仏習合を目の当たりにすることがあります。


 植島

 はい、ありがとうございます。九鬼さん、今のお話どうですか?


 九鬼

 熊野では古来より由緒ある神を祀りながら、熊野権現として仏教を受け入れてきました。
 奈良時代から大峯修験の行者が大社に頻繁に出入りし修行し、そこで神と仏を同じと考える本地垂迹の考えが定着したんだと思います。
 熊野本宮でも家津御子大神(けつみこのおおかみ)を祀っていますが、それに対応するのは阿弥陀如来(あみだにょらい)です。現在で神と仏をひとつとしてご説明する時には本地仏(神の形をした仏)の名前を申し上げており、根底では今もなお一体であるという思いがあります。


 植島

 先程、藤原道長の話が出ましたけども。藤原道長は11世紀の人でこの世紀頃にいろんなことが起こりました。修験道も11世紀に非常に盛んになりましたし。その背景は恐らく末法思想だと思うんですね。1052年から末法に入ると。
 1052年からはこの世の中は乱れに乱れて混乱の時期を迎えるということがあって。人々は極楽とか浄土を求めて右往左往したと思われるんですが。
 田中さんどうでしょう?



 田中

 そうですね。11世紀というのはそういう世紀で。御岳詣もそうですし熊野詣もそうですし、高貴な方々が命を賭して、高野とか吉野とか熊野とかへはるばる京都からおいでになるわけですから。その背景にはやはり現世利益だけではない来世利益みたいな…


 植島

 浄土信仰とか?


 田中

 そうそう。そういうものが背景にあって身を賭していくということになっていく。そこに盛んになる要因があったんだと思います。


 植島

 村上さんどうですか?


 村上

 基本的にはねちょっと言われたように末法ってのは、これでお釈迦さんの教えは終わりという時期に来たって思想ですよね。
 ということはもう救われない訳です。救済されない、悟りの道も無い。そういうのが基本的にはあるんですけども。


 そうすると誰かに救ってもらわなきゃいけない訳ですよね。お釈迦さんでなくたっていい訳で、結局それが阿弥陀信仰になっていくんですね。ですから高野山でも阿弥陀信仰がその頃、つまり11世紀に流行っていましたね。

 高野山のお寺の本尊さんは今でも阿弥陀さんが多いんです。阿弥陀信仰ってのはやっぱりわかりやすいですから。「必ず臨終の席には私の名前を呼んだら駆けつけてやるよ」って言っておられるんですから。「南無阿弥陀仏」と言ったら救われると、そういうのでは非常に分かりやすいし理屈も無いし。それで末法としては縋るわけですから何かにね。それで阿弥陀信仰がそこに出てくるんだと思うんですけども。

 ついでに言いますと真言宗の教学的にはそういう末法思想は無いです。即身成仏思想ですから。


 植島

 でも影響は受けたでしょう、随分。


 村上

 だから影響を受けて「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」に走る坊さんが高野山でも・・・即身成仏信じてなかったんでしょうかね。基本的、教学的には真言宗に末法思想は生まれてこないですからね。


 植島

 九鬼さん、熊野もその影響の例外では無くて熊野三所権現と、仏教的な色彩が強いんですけど。強くなったのは10世紀から11世紀にかけてですね。
 やはり影響あったんじゃないですかね。


 九鬼

 大いにあったと思いますね。おっしゃったように阿弥陀信仰、熊野はご存知のように主神は素戔嗚(すさのお)大神・家都美御子大神ですけども、本地仏は阿弥陀さんですから。阿弥陀信仰でやはり熊野は非常に多くの方々が山々を越え詣でたと。
 熊野本宮は特に阿弥陀信仰があり、そのあと那智は今の伊邪那美さん・千手観音ですね。観音さんの信仰が移り変わっていくわけですけども。
 やはりその時は三山それぞれ大きな打撃を受けたというか。
 熊野の根底はやはり神道でありながらも、今の熊野というのは神仏一体ということは、そこで熊野の本来の本質が生まれ変わったということですから。

 つけ加えれば、廃仏毀釈・神仏分離の時にはことごとくお寺だけじゃなく、熊野本宮大社も本室から、御社殿から阿弥陀如来などの像を持ち出されて焼かれたり、熊野川に捨てられたり、叩き壊されたり。やはりそういうことがありました。


 田中

 吉野もそういう意味では色んな信仰があるんですよね。
 道長が金峯山詣をして(現在は国宝になっている)経筒を寛弘4年(1008年)に埋めるわけですけども、途中で山上本堂の修理に際して掘り出すんです。あの道長の願意は弥勒下生・弥勒信仰なんですね。「お釈迦さんが亡くなった56億7000万年後に下生されて人々を救う」。その信仰が当初ありました。

ところが大峯の修行する道に秘歌という行者たちが歌を詠む場所が沢山あるんですけども、ここに弥陀浄土いっぱい出てくるんですよ。
 代表的なのは銅の鳥居という発心門のところで詠む歌は「吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき。」いよいよここから弥陀の浄土に入っていくんだという歌を千年単位の長い期間にわたって詠み続けている。

 そうした意味では、いろんな信仰を包み込んで来た場所ではあると思います。


 植島

 なるほどね。


 九鬼

 ご存知の通り、時宗・一遍上人が熊野詣でをされて熊野で開化したという一つの伝承がございます。やはり「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」ということで「一切無常を持って札を配るべし」という御真言があったという事で。阿弥陀というのは非常に深い、熊野にとっては大事な信仰の発端です。


 田中

 熊野は阿弥陀の浄土なんですよね。吉野から大峯奥駈の道を行じると最後には熊野の阿弥陀浄土がある。


 村上

 今思い出したんですけども。阿弥陀信仰関係でいうと六字名号ですね。「南無阿弥陀仏」の6字。その名号を書いてある板を空海が残したっていう伝説があるんですよ。
 一遍上人も高野山に阿弥陀信仰を持ち込みますが、その前に法然(源空)さんの弟子たちが別所、別所へ入り込んで南無阿弥陀仏を唱えるんです。従来の真言宗の学侶たちは鐘や太鼓がうるさいと言って取り締まれということでやったりするんです。ですからその時期は非常に阿弥陀信仰が全山で流行ってたっていうのは確かです。


 田中

 墓で食ってるのはそれじゃないですか? 高野山、墓ばっかりでしょ。


 村上

 あれは、また違うんです。


 田中

 違うんですか?


 村上

 弥勒浄土の弥勒さんが次の仏陀として下生してきますね、56億7千万年後に。その時に説法をする場所が三箇所あるんです。その一箇所は高野山なんです。それがお大師様のところに降りて来て、下生されて・・・という話です。弥勒信仰です。




 <まとめ>



 植島

 あと10分くらいしかないんですけども、川﨑さん総まとめみたいなのを。


 川﨑

 大役ですね・・・お話をお聞きしてる中で末法思想のお話がありましたけれども。私の世代は社会に出る前にバブルもはじけていて、生まれた段階からある種の世界的な無宗教の時代に入っていました。ある種、末法思想の世界に似てるなという事をお話お聞きしながら感じたんですね。

 私事なんですけど盆栽を初めて見たのが18歳の高校3年生の頃です。日本文化を知りたいけれどなかなか勉強の仕方が分からない。そんな中で初めて樹齢約300年の盆栽を見た時に、見方も価値も何もわからなかったんですけど、直観的に依り代だという風に感じたんですね。

 見方も価値も何もわからない状態で、本能で察知したかと思うんですけど。それまで樹齢約300年の木といいますと、神社にあります御神木のような大木だったので、大木・御神木が一鉢の中に収まっているというのが信じられなくて。ある種イリュージョンのような、錬金術のようなものを感じまして、そこに少し救われたような気持ちになり。盆栽が分かれば、自分が知りたい日本文化が分かるかもしれない、というところに行き着いたんですね。

 いつの時代も、救いを求めて手さぐりしている中で、樹というのは人よりも、生き物の中でも圧倒的に命が永いです。そういったところに永遠性といいますか、憧れから自然との一体感を求められたのではないか。アニミズムといいますか、人が最終的に山の中に入っていくというのは、個人的にはすごく腑に落ちる印象があります。


 植島

 山林修行者みたいな、日本の宗教を担ってきた人々ですね。
 田中さん最後にお一言。


 田中

 明治初年(1868)の神仏分離令によって、伝統的に神仏習合によって成り立っていた日本固有の宗教体系は世俗的権力によりつき崩されます。伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策により、神仏習合の修験道は存在することさえ許されず、明治5年に修験道廃止令が出ます。全国各地にあった修験道は一時消滅し、大方が廃寺となったり神社になったりしました。金峯山寺も一時廃寺となり、仏寺として復興されたのは明治19年です。

 一方では1906年の神社合祀の勅令により、1914年までに約20万社あった神社のうち7万社が取り壊され、次々と国有地として没収。森林は伐採され民間へと売却されていきました。
 そうした苦渋に満ちた歴史を踏まえた上で、我々は神道や仏教のみならず、いかなる宗教をも受け入れるという寛容で融和的なわが国の宗教風土を、改めて見直していかねばならないと思います。

 明治の近代化政策の中で、レリジョン(Religion)という一神教的価値観の宗教概念を「宗教」と訳して使用しだしましたが、その宗教概念が入ってくる前から、日本には仏教や神道という信心の世界がありました。
 日本人が本来戻るべきは明治より前で、近代の歪みがうまれる以前からはぐくまれていた日本の風土・習慣・信仰心を見直すしか、将来をひもとく糸口はみつからないのではないかと思います。
 日本人の精神の基をはぐくんできた多様な形の、創造主をもたない宗教というのは、一神教の宗教とは成り立ちが全く異なるものです。紀伊山地の霊場と参詣道はそういう、一神教の価値観に凌駕されない日本的で多様な精神風土がまだ残っている稀有な場所だと思っています。


 植島

 ありがとうございます。では九鬼さんからも。


 九鬼

 まず神道に関してですが、神道というのは神の道であり、すなわち人の道でもあるわけで、初詣、お宮参り、七五三と日本人が繰り返してきた人生儀礼のひとつです。昨今は核家族化が進み神棚も祀っていないので、神社が日常とは隔たりがあるように感じてしまうかも知れませんが、神道だからと身構えるのではなく、また人生の節目に限定せず、日常でもほっとしたいときに、リセットしたいときに、住まい近くの神社を訪ね、その土地にどんな神様が祀られているのかを知り、楽な気持ちでお詣りする習慣を知ってもらいたいと思います。

 次に神仏習合についてです。明治の神仏分離令は近代化の波を浴び、日本も欧米にならって宗教をひとつにしようと(時の政府が)考えた訳で、図らずも仏教が排斥を受けましたが、政策で決めただけでは人の心は変えられません。
 熊野三山、高野山、金峯山寺もそうですが、紀伊半島の霊地にはそのような混合したものがありますが、それを形成したのは人です。つまり自然がさきにありきで、人々がそこに神仏を見た。当時の人々が非常に高い意識をもって胎蔵界、金剛界など自然の中に体系を作ってきたのが今日まで継承されているということです。

 冒頭、「融合」が大事ということを申し上げました。今、世界各国でいろんな問題を抱えていますけれど、一人でも多く吉野・高野・熊野にお越しいただき、この「融合」というものを感じていただければと思いますね。


 (拍手)


 田中

 神仏習合に関連して、もう一つだけよろしいか?

今から10年前に、関西の大きな神社・大きなお寺を中心にお伊勢さんを特別参拝として152の神仏霊場会というのが設立されました。私その幹事職をさせていただいていまして、今は教学委員長という重役を担っているんですが、来年10周年でして、それをきかっけにたくさんの方に知っていただこうという試みをしています。神仏分離の時代からようやく神仏習合が声高に言っても怒られない時代が来た中で、それをビジュアルに体験していただこうという会が来年10周年を迎えます。

 是非・・・関東の方も。1つ参り始めると、あと151行けますから。
 定年退職して自由になった夫婦が出来た時間をもてあます時代です。奥さんが「次はどこ行くの?」と聞くと旦那さんはすごく困るらしいんですよね。

 (会場笑い)

 西国三十三箇所に1つ行くとあと32は行くとこが決まるわけですけど、33で終わる。
 その点、神仏霊場は152ですからね・・・しばらく困りませんので是非これらを廻っていただければと思います。


 植島

 それでは、最後の最後を村上さんに締めていただきましょう。


 村上

 神仏習合というのは本地垂迹という形で具体的には出ているわけですけども。修験の道も神道の道も、そして真言密教の道も共通している。それはどこなのかというと紀伊半島ですね。緑豊かな紀伊半島の地でその命を受けてきたということですね。

そしてそれは、実は川﨑さんが言われたことがまさにそうだと。盆栽に通じている所があるんですね。それは理念なのか原理なのか、三つほどあげられましたよね。

 一つは自然への敬意という事、畏敬の念を持って自然を見るということですね。自然は材料ではないんですよ。命を与えてくれてる存在なんですよね。その自然への敬意というのは確かにこの紀伊山地の霊場と参詣道に生きてるし、それぞれの宗派にも生きてるんじゃないかと思います。


 それから命の継続とおっしゃいましたね。それ以外ないんですよね。自然の命の継続は、また人間の命の継続なんですよ、生きた自然が生きた人間あるいは動物たちを育ててくれるわけですよね。私はそう思って川﨑さんの話を聞いていました。

 最後に小さな巨木って言ってましたね。世界観だったんですけど、これも我々の宗教の世界観とも関わってくる。川﨑さんは盆栽という小さなものを見て、この千数百年の紀伊山地の共通のものを説明してくださったんだなと思って聞いておりました。どうもありがとうございました。



 植島

 ありがとうございます。

 紀伊山地の霊場と参詣道の本質を探る。非常に大きい論題なので、まだ語り尽くせない所がたくさんあるんですけれども、これにて終了させていただきたいと思います。

 皆様今日はご来場、誠にありがとうございました。最後にご出演の皆様に拍手をお願いします。


 (拍手)






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